こんにちは!HLCAのYumiです。
留学とは言っても国や方法、目的、色々なパターンがあると思います。 今日は私がセブ島留学した理由を、個人的なことも含めて赤裸々に書きたいと思います。
留学という言葉にはポジティブな気持ちの印象があると思います。
実際に留学することを周りに話すとたいていは「すごいね。かっこいいね。がんばってね!」と声をかけてもらいました。
でも私はネガティブな部分から留学することにたどりついた1人なのかも知れません。
私が留学した理由は二つあります。
この記事のもくじ
英語への強い憧れと話せないことへのコンプレックスがあった
私は小さな時から英語がとても好きでした。
小学校低学年では地元の教会の牧師さんが教えてくれる英会話教室に通ってみたり、その頃は高校生の姉の洋楽CDをこっそりカセットテープ(古!)に録音して、何度も何度も聴き、聞こえた音をカタカナにして書きとめ、歌いまくっていたのを覚えています。
その後は中学、高校と一通りの英語学習をして、その後は英語とは無縁の生活を送っていました。
ロサンゼルスでの看護研修
社会人になり数年経って、看護師を目指すことにしました。
そこで選んだのがロサンゼルスに姉妹校を持つ国際的な看護専門学校でした。 2年次にはロサンゼルスで2週間の研修があります。
憧れの英語が徐々にコンプレックスになっていったのはこの頃からでした。 英語の環境に近づけば近づく程、自分の英語力の低さが身に染みるのです。
私の通っていた看護学校の半数の学生は社会人で、学校の特徴柄か帰国子女やワーキングホリデー中に英語を習得してきた人々が周りにいました。
定期的にロサンゼルスの学校とインターネット授業があり、いつもは一番騒がしい私もこの時ばかりは息をひそめていました。
間違った英語を話す勇気がありませんでした。
2年次になりいよいよロサンゼルスでの2週間の研修が始まりました。
研修の内容はUCLA訪問、グループに分かれて病院研修、老人福祉施設研修、救急車研修など。
あとは小さな島へ移動しキャンプ寝袋生活5日間。 現地の教会での料理の振る舞い、浴衣でビーチでよさこい踊り!
ここで初めての海外、アメリカ、医療現場、現地との交流を体験し、英語熱に火が付きました。
帰りの空港で英語の参考書を買い、しばらくは英語学習に励みました。
現地に友達もできたので電子辞書を引きながらおかしな英語で一生懸命メールのやり取りも続けていました。
しかし、その後厳しい病院実習、国家試験受験を通してまたもやすっかり英語から遠のいていきました。
看護師の免許習得後地元の病院に勤め出し、それなりに楽しく時には海外旅行に行ってみたり日々を過ごしていました。
やはり海外でも観光地であれば英語ができなくても全く困りませんでした。
日本に帰ってからの葛藤
私の地元は国際空港の近くです。
勤め先では航空機内での健康トラブルで入院する外国人患者や工場での業務中のケガで手術にくる患者さんがいました。
そのたびになんだかすごくモヤモヤとしたものが私の中にありました。
「なぜ私は英語が話せないんだろう。話せたら患者さんに一言安心できる言葉がかけられるのに。」
英語とは関わってきたものの、英語を自分の口から発することがこんなに難しいなんて。。
また、地元のレストランやバーではやはり空港関係で日本に来ている外国人をいつも見かけました。
友達にもなったしそれなりに話はできる、メールのやりとりもする。 でも少し深い話になると理解できないし話せない。 それが嫌で嫌でたまりませんでした。
考えれば考えるほど「私に今欠けていることは英語を話せないこと」、これを克服しなくてはどうしようもない!
というほどなぜかそれに苦しんでいました。
これが一つ目の理由です。
日本をできるだけ長い間、離れる方法を探していた
安定した日常の中でくすぶる気持ち
看護師になって5年目になりました。 看護学校卒業後ずっと同じ職場で働いていたので居心地がよくなっていました。
先輩からこっぴどく怒られることもない。 一人暮生活も収入も安定し不満はないし、よく旅行にも出かけていました。
私の脳は医療・看護の世界にどっぷりはまっていたと思います。 自分にとっての看護師とは急性期の病棟で働き続け志を持ってキビキビしているべきもの。
診療所・老健・アルバイトナース?、病院で看護師免許持たずに働いているなんてもってのほか!
しっかりと診療計画に従わない患者さんはダメ、病院にきて治療を真面目に受けるのが当たり前・・・。
その一方で人が死と向き合うときの無力さ、儚さ・・・。複雑な気持ちで看護に対しての気持ちが揺らいでいたように思います。
その頃今後の自分の人生について考えて始めました。
看護とは全く関係なく私は起業することに興味をもっていました。 特にこの分野でとかはなくでも絶対いつかやろうとは決めていました。
でも現実的に考えて、まずはこのまま看護のキャリアアップを考えるべきなんだろうと思っていました。
専門看護師、認定看護師、保健師、助産師!?、職場を変え新しい診療科を学ぶ・・・。 なんか違う・・・。もっと環境が変わること・・・。
「ワーキングホリデーに行こう!」
イギリス、カナダ、オーストラリアを検討してアメリカにも遊びに行きたいしと思いカナダに行くことにしました。
もちろん英語を学びたいけど、できるだけ長く日本から離れる方法をずっと考えていました。 それからは名目上「国際的に活躍できる看護師になる」という夢のありそうな目標を置きました。
安易な気持ちから立てた「日本逃亡計画」
インターネットで情報を探していると「2か国留学」という言葉をみつけひきつけられるようにそのウェブサイトを見ました。
自分の頭には全くなかったフィジーやフィリピンで英語が学べる。
「へ~。」
費用が安くマンツーマンで集中的に英語が勉強できる。
「うん。」
アジア圏で基礎の英語力をつけてから欧米にいけば有意義にワーキングホリデーの期間を過ごせる。
「なるほど。」
そこでわたしの「日本から逃亡計画」が完成しました。
セブ島留学4か月⇒カナダ1年⇒オーストラリア2年⇒青年海外協力隊(JICA)完璧☆
これで5年日本から離れられる。それだけでした。
青年海外協力隊にしたのは海外で仕事がしたいけど、英語に自信がないからボランティアならなんとかできるかな・・・
という甘ったれた考え。 今思えばこんな甘ったれた考えで応募しないで良かった。(まず厳しい審査に受かってないと思いますが)
計画は立てたものの中身はボヤーっとしたものでした。途中で計画が変わればそれはそれでOK。 でも日本には当分帰らないからね、と。
セブ島に来て自分がずっととらわれてきた「何か」がなくなりました。
その「何か」は看護師としてずっと生きていくこと?自分の周りに今あるものを守ること?親が望む姿の自分でいること?
あとは言葉では表せないたくさんの「何か」です。
肩の力がすーっと抜けて「人にはいろんな生き方がある」「人生の満足度は仕事とお金だけではない」と感じました。
いつも何かと誰かと自分を比べていた生活から「ただの自分」を客観的に見るようになりました。
そしてとにかくがむしゃらに英語の勉強に励みました。 語学学校で今まで自分とは無縁だった類の人々と話して生活して旅をして。新鮮でした。
もうひとつ、現地の友達を作ってひたすら話す、私は歌を歌うことが好きなので現地の友達が楽器を演奏して、私が歌う。
そんなひとときがとても幸せな時間に感じられました。 かっこつけないで過ごせるこの場所がとても心地がいいのです。
そして私はセブ島留学後の予定を白紙に戻してここに生活の拠点を移しました。 ここで今できることをしたい。
そこで看護としての経験を生かし、日本の医療人材に海外に出るきっかけ与えるHappy Life Cebu Academy(ハルカ)を作りました。
日本の大きな企業つながりがあるわけでない、有名な英語教育本の著者でもないただの私が、行動をし続けたからこそ、たくさんの人に助けをもらい、地元とのつながりを大切にしながら形にできたものです。
元々大きな情熱を持っていたわけでもありません。 ただ英語が話したくて、海外に行きたかったというそれだけの理由でした。
でも行動をしてきたからこそ現状を変えることができたと思っています。
もしも今の現状に何かが足りないと感じるなら、自分の気持ちに素直になってまずは行動してみてください。
最初は不安やためらいがあるかもしれませんが、その先に新しい道が見えると思います。